スタッフブログ特別編(#5 ヴェッキオ橋 3/3) ヴェッキオ橋 爆破せよ!

2022年10月18日

スタッフブログ特別編 ブラリ橋海外編(#5 ヴェッキオ橋 3/3) 

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それにしても、橋の上や護岸の上に建てられた建物をみると大胆ですね。まるで、護岸や橋の上は、張り出して造るのが当たり前みたいですね。

下の写真を見てもらえればわかりますが、特に右の写真は橋のアーチ部に方づえの部材を固定しています。さすがに今ならこんな工事は許されないでしょうが、洪水の心配なんか全く眼中にないという感じです。

でも、下の写真のように護岸の上に張り出した建物が、それを支える壁に乗る部分は、アーチ形状のデザインになっていて、細かいところに景観への配慮が感じられます。さすが、街並みが世界遺産ということに納得です。

さて、ヴェッキオ橋の扁平アーチの凄さと1966年の洪水についてみてきましたが、最後はヴェッキオ橋爆破の話ですね。ヴェッキオ橋に一体何があったのでしょう。

気になるヴァザーリの回廊(1565年完成)の話は置いておいて、最後に橋の爆破の話をしましょう。

この話は日本が終戦を迎える1年前の1944年、イタリア戦線と呼ばれるドイツ軍と連合国との戦いのなかで起こった話です。まずは、そのあたりの背景を先に説明しておきます。

写真と本文は関係ありません。

■イタリア戦線とは1

現在のイタリア(イタリア共和国)の前身となるイタリア王国は、第二次世界大戦においてはドイツ側で参戦していました。

1943年7月、シチリア島に連合国軍が上陸し、国王はムッソリーニを切り捨てて休戦を考えるようになります。ムッソリーニは徹底抗戦を主張しましたが、北イタリアの山岳地帯にあったホテルに幽閉されました。

1943年9月8日、連合軍のアイゼンハワー大将によるイタリア王国の一方的な無条件降伏宣言により、イタリア王国は枢軸国から離脱、降伏に至ります。

この動きを事前に察知していたドイツ軍は直ちに部隊を展開させイタリア軍を武装解除、主要地点の占領に入り9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領しました。

これに対し、連合軍はイタリア半島南部から北上、ドイツ軍は、4重もの防衛線(ラインハルト線・ヒトラー線・グスタフ線・カイザー線)を敷き、抵抗を続けました。

1944年5月、カイザー線が突破されると、6月4日イタリア首都ローマが陥落しましたが、ドイツ軍はイタリア中部に再度4重の防衛線(ヴィテルボ線・トラジメーノ線・アルノ線・ゴシック線)を敷き直し抵抗します。しかし、アルノ線まで連合軍の突破を許し、8月11日フィレンツェが陥落しました。

ドイツ軍がフィレンツェから撤退するとき、アルノ川に架かる橋を爆破しました。ところが、ヴェッキオ橋だけは爆破されなかったのです。

理由は何だったのですか。

それが、はっきりしません。複数の説があるようですが、最も受け入れやすい説は、ヴェッキオ橋の上の建物の壁に取り付けられたパネルで説明されています。
大きなパネルですが、少し高い位置にあるのとイタリア語で書かれていますので、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

さてさて、何と書いてありますか。

正直、イタリア語はさっぱりなので、イタリア語がわかる人に助けてもらいました。イタリア語が堪能な方は少し見づらいですが読んでみてください。

■ドイツ領事が爆破を阻止したとする説

一番上に書いてあるGERHARD WOLF(ゲルハルト・ヴォルフ)は、名前です。「1896年ドイツ・ドレスデン生まれのドイツ領事(CONSOLE TEDESCO)。ドレスデンは後にフィレンツェと姉妹都市提携を結ぶ。そして、第二次世界大戦の蛮行から、1944年ヴェッキオ橋の救済のために決定的な役割を果たした」と書いてあります。

ただ、Web上に多くの方が書いているような、「歴史的価値に対するリスペクトから・ヒトラーの緊急命令だったから・戦車が入れなかったから」などの具体的な事情については触れられていません。

どのようにこの領事が橋の爆破を阻止したかが不明なのですが、結局のところヴェッキオ橋は、700年に渡って継承してきた貴重な文化的価値を未来に残すことができました。そのことに対するイタリア人のお礼の気持がこのパネルに表れているらしいのです。

ちなみに、旧東ドイツのドレスデンは、街の中をエルベ川が流れ、その美しさは「エルベのフィレンツェ」と称されるとのことです。この領事がそんな歴史ある古都に生まれたのなら、フィレンツェが破壊されることに心を痛めたのかもしれません。

ということで私には、この説が最もしっくりきますが、他にも説があるのです。

■他の説

Web上に見られる2つの説を紹介します。

①ある本の中で目撃者の証言として『その夜、ヒトラーはすべてを破壊しようとしたが、宝石商の友人が地雷(爆薬)の線を抜いてしまった……』と書かれたイタリアの記事を『放浪ジュエラー再出発記(仮)』さんがブログの中で紹介しています。

つまり、橋が爆破されなかったのは、ドイツ領事のおかげではなく、それを阻止した二人のイタリア人がいたという記事です。記事は2016年10月26日付ですが、このブログにも書かれているように、この記事は橋の上に掲げられているパネルに何の影響も与えてないようにみえます。

少なくとも2019年の段階ではそのままでした。さて、真実はどうなのでしょうか。

②ヴェッキオ橋を破壊しても多くの瓦礫が川に残り、軍用車は容易に通行できるから、あえて爆破しなかったという説が、『フィレンツェ・イン・タスカ』さんのブログの中で紹介されています。

多くの瓦礫が河川内に残るほうが復旧には時間がかかりそうですが、仮に瓦礫を均せば簡単に道になるような細かい瓦礫であれば、今度は、川の流れを堰き止めるという別の問題が生じます。

いずれにせよ、この説も説のひとつに過ぎませんが、実際にはイギリス陸軍の王立工兵隊(Corps of Royal Engineers)が、サンタ・トリニタ橋の残骸の上にベイリー橋(Bailey Bridge)という橋を短期間で架設しました。この橋は、ヴェッキオ橋から下流に250mしか離れていません。

この事実からすると、ヴェッキオ橋が爆破されていたとしても大きな問題ではなかった可能性もあります。ベイリー橋とは、土木技師であった英国人ドナルド・ベイリーが考案したプレハブ工法のトラス橋で、ワンユニットをクレーンを使わず短時間で架設できる仮設橋梁のことをいいます。

ヴェッキオ橋のことを、知れば知るほど渡ってみたくなりますね。

いつか、是非この橋を渡ってみてください。最後にプチ観光情報をひとつ紹介して、今回のブラリ橋海外編を終わります。

■レオナルドが修行をした場所で本場のパスタはいかがですか。

1452年、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェからおよそ30km西方にあるヴィンチ村(Vinci)のアンキアノ(Anchiano)に生まれたとされています(注1)。ヴィンチ村と聞くと、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれたところだからヴィンチ村かと思う方もいるかもしれません。

日本では、「ダ・ヴィンチ」と「レオナルド」の両方の呼称が使われていますが、ルネサンス期のフィレンツェの名前では、「ダ・ヴィンチ」というのは姓ではなく出生地を示していたようです。つまり、「ヴィンチ村のレオナルド」ということなので、偉大な天才レオナルドによって村名が改名されたというわけではないのです(注2)。

現在のイタリアの行政区分は「州(レジョーネ:regione)・県(プロヴィンチャ:provincia)・基礎自治体(コムーネ:comune)」の順番になっており、コムーネが日本でいう市町村にあたります。

そのため、ヴィンチ村(人口約1万5千人2))は、正確には「イタリア共和国・トスカーナ州・フィレンツェ県・ヴィンチ村」となります。日本語訳のヴィンチ村は行政規模からヴィンチ村と呼ばれていると思われます。小さい行政区域ですが、ヴィンチ村の中心地には、今は少なからず家が密集しています。

レオナルドの生家は、ここから2kmほど山の方に上った小高い丘陵地にあり、標高200mくらいのところです。見晴らしの良いトスカーナの丘には、オリーブの畑が広がっています。当時はどうだったかはわかりませんが、車一台が通れるほどの道が抜けており、生家はその道沿いにあります。

レオナルドは婚外子として、父セル・ピエロ、母カテリーナのもとに生まれますが、父はレオナルドが生まれて8か月後、母は生まれてすぐ別々に結婚します。3)
そのためにレオナルドは5歳くらいまで、誰に育てられたかがわかってないそうです。(数年間は母親と暮らした可能性があるとの資料4) もある。)1460年代半ば、レオナルドは家族とともにフィレンツェに引っ越し、彼が14歳になったころ、当時のフィレンツェを代表する画家であり彫刻家であったヴェロッキオの工房で修行を始めます。

このヴェロッキオ工房が入っていた建物が今も残っています。100年くらい前に建てられた建物なら新しい建物と称するようなヨーロッパですから、レオナルドが修行していた建物が残っていても不思議ではありません。

ドゥオモ広場の大聖堂

この工房は2箇所判明していて、レオナルドが最初に入ったのはアニョロ通りにあったとされています。その後、ヴェロッキオ工房はドナテッロの工房を引き継ぐ形でドゥオモ広場へ引っ越します。この工房は、下の写真の建物から50mくらい左手にあり、この写真のように入口の上にドナテッロ(注3)の肖像が飾られています。

ドゥオモ広場(北側)には、入口の上に肖像がある建物は2つしかないのでわかりやすい建物です。この建物の一角にイタリアンレストランが入っています。

ドゥオモ広場はフィレンツェで観光客が最も賑わう場所ですので、市内観光に疲れたら、このレストランで本場イタリアンパスタを堪能してはいかがでしょうか。若きレオナルドが修行をした同じ空間で食べるパスタは、貴方のイタリア旅行の思い出作りに一役買うこと間違いありません。

それでは、今回も少し長くなりましたが「ブラリ橋海外編#5ヴェッキオ橋」を読んでいただきましてありがとうございました。

参考文献・資料

1)イタリア戦線 https://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア戦線(第二次世界大戦)

2)Google マップ(ヴィンチ村)

3)何がダ・ヴィンチを天才にしたのか?「フィレンツェのレオナルド 修業時代の謎」BS朝日

4)Leonardo_da_Vinci https://ja.wikipedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci

注釈

注1)ウィキペディア日本版「レオナルドヴィンチ」は、彼の生家や幼少期について断定的に記述しているが、英語版の記述は可能性があるというような書き方に留めている。また、「ヴィンチ村はフィレンツェから20kmほど離れた郊外」となっているが、実際にはおよそ20マイル(32km)西方に位置している。

注2)wikipedia「 Leonardo da Vinci」: In this Renaissance Florentine name, the name da Vinci is an indicator of birthplace, not a family name; the person is properly referred to by the given name, Leonardo.

注3)ドナテッロ ルネサンス初期のイタリア人芸術家、金細工師、彫刻家。フィレンツェ共和国出身。ドナテッロの彫刻は、イタリアを中心とするルネサンスの彫刻家たちに大きな影響を与えた。

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