スタッフブログ特別編(#4 幻の美濃田橋 4/4)奇岩の元は、地下深くから?

2021年11月08日

スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#4 幻の美濃田橋 4/4)

<このページは、「#4 幻の美濃田橋3/4」の続きです。>

⑤『中央構造線は大断層ですが、どうして「中央大断層」って言わないの?中央構造線は何歳?』

付加体の特徴は、「付加した順番に地層が古いこと」です。たとえば、ジュラ紀の付加体の次に白亜紀の付加体という順番になります。ところが、 不思議なことに日本列島では中央構造線を境にしてジュラ紀の付加体が繰り返しているというのです。 「日本列島の誕生 平朝彦著(※9)」という本から、この現象について、平氏の仮説を紹介します。

「ジュラ紀末から白亜紀始め(1億4000万年前から1億年前)頃は、現在の中国地方や九州の北部に相当するところは大陸の北側の縁にあった。一方、西南日本の太平洋側にあたるところは、大陸の南側にあったが横ずれ運動により北上し、これらの付加体同士は接するようになった。その間に中央構造線ができあがった。」というのです。

つまり別のところでできた付加体が合わさったということですが、「付加体の繰り返し問題」に対する説得性があるこの仮説もさることながら、中央構造線の起源についての説明にも興味が惹かれます。中央構造線とは一体何なのでしょう。

中央構造線は、およそ1000kmにも及ぶ大断層ですが、「中央大断層」などと呼ばれず「中央構造線」と呼ばれます。中央構造線を境に太平洋側を外帯、日本海側を内帯と呼んでいるのも、単なる断層ではなく日本列島の地質区分として重要な断層であるという証です。

中央構造線が、いつ、どのようにできたかについては、上述の仮説もありますが、結局、断層の断層たる所以は「動く」ということです。それならば、中央構造線が初めて動いたのはいつなのでしょう。それが中央構造線の年齢ということになりますが、そんなことがわかるのでしょうか。

結論から言うと、中央構造線の年齢は約1億年とされています。これも白亜紀の時代です。この頃、現在は沈み込んでしまって存在していませんが、イザナギプレートという海洋プレートが大陸の下へ「斜め」沈み込みを開始し、その境界の少し陸側に、中央構造線は左横ずれ断層として誕生します。中央構造線としての始めての活動はこの左横ずれ運動とされています。

因みに、中央構造線が話題になるとき、よく出てくる言葉「左横ずれ断層」について説明しておきます。今はフィリピン海プレートが西北西方向に沈みこんでいるため、中央構造線は右に動く「右横ずれ断層」です。左、右というのは、断層の前に立ったとき断層の向こう側の土地が左右どちらに動くかで定義します。

なぜプレートが中央構造線を左や右に動かすのかというと、それは、プレートの沈み込む方向が境界に対して垂直から隔たっているからです。沈み込みは3次元ですが、簡単にするために二次元で下図に示しました。この運動の水平成分が右向きか左向きかにより、中央構造線のずれの方向が決まります。

最初の活動時期が約1億年前ということですが、その証拠があるのです。それは、このとき最初に沈み込んで生じたと思われる、沈み込み帯としては異常な高温を記録した鉱物(※新居浜市の西五良津岩体の変成作用によるガーネット核部)の成長年代を測定したところ(※10)、この時期(沈み込み開始時期)が約1.16億年前であることが求まっているのです。また、地下深くの断層活動によって生じるマクロナイトという強く変形した岩石の形成時期を特定したことでも同様なことがわかっています。

さらに、これより古い時期に中央構造線が活動したという証拠は見つかっていないことから、上述したように中央構造線は約1億年前の白亜紀に誕生したとされています。

⑥『美濃田の淵の結晶片岸を産んだ三波川変成帯。地下深くでできた岩石なのに、どうして地表で見える?』

三波川変成岩がなぜ地表に現れているのかという「三波川変成岩の上昇問題」は、地質学会における重要問題らしいのです。

三波川変成帯の結晶片岩は、地下深くにおいて高い圧力で変成作用を受けた岩石です。その岩石がどうして、あのような奇岩として私たちの目の前に姿を現しているのでしょう。
これまでの研究によれば、この変成岩は、6000万年前ごろに地下深部から上昇を始め、中央構造線を境にして領家帯・和泉層群と接することになりました(※上昇運動は、初期の上昇と地表までの上昇の段階があり、初期の上昇は9000万年前くらいから始まりました)。

ここまでわかって何が大きな問題なのかというと、この問題も海洋プレートの沈み込みの原動力がわかっていないのと同じで、どのような力が働いて地表まで上がってきたのかが解明されていないのです。

変成岩を上昇させた力については、いくつかの説がありますが、有力な説に「浮力」が原動力というのがあります。私たちが身近に見る機会が多い三波川変成岩に、こんな難問が残っているとは少し驚きですが、この問題については現在研究段階であり、すべての現象を総合的に説明できるモデルの登場が待たれています。

⑦『日本列島はアジア大陸の縁からやってきた。どうやって?』

付加体が形成されていたジュラ紀や白亜紀の時代、日本列島の元はアジア大陸の縁にありました。新生代になり2000万年前ごろになると、大陸から分裂を始めます。

この様子を平氏の本から引用します。

「1700万年前になると、西南日本が回転を始めました。(中略)西南日本は約45度時計回りに回転し、東北日本は25度反時計回りに回転しながら南へおりてきました。その南へおりてきたときに、現在の北海道と東北日本の太平洋側を結ぶ部分は、横ずれ断層で切れて、東北日本の部分は、北海道を残したまま南へ南へと移動してきたのです。その回転と拡大は約1450万年前にはほぼ完了しました。」

こうして、現在の位置に弓形をした日本列島が誕生しました。これこそ、どうやってそんなことがわかるのかと言いたくなりますが、それは、古地磁気(こちじき)(※11)という研究に基づいています。

結果だけみると、この研究の苦労のほどがわかりませんが、日本に分布する岩石をひとつひとつ採取して鑑定するという、乙藤洋一郎氏ら多くの地質学者による地道な研究の成果なのです(※12)。

なお、大陸から日本列島を引き裂いた力は何かという問題も気になりますが、説明図がないとわかりづらいので割愛します。これについては、挿絵付きで平易な説明をしている本がありますので、後記しておきます(※13)。

⑧『四国山地・讃岐山脈、今私たちが目にする高い山々は、いつ頃できたのでしょう?』

いよいよ地質時代も新生代第四紀、およそ260万年前から現在までの時代です。この時代は、日本列島における最大の出来事、「山地の隆起」の時代と言われています。下図は、国土地理院の地図を使って作成した「美濃田の淵」を南北方向に切る断面図です。吉野川の南側には2000m級の山を頂く四国山地が太平洋へと続きます。

この図は、縦横比を31:1で作成しています。さすがに、1:1で描くと全く山をイメージできない断面図になりました。瀬戸内海から太平洋まで、およそ100km。このあたりだと、1400mほどの山ですので、同じ縮尺では、文字通り絵になりません。

四国山地や讃岐山脈がまだ今のように高い山々でなかったとき、四国は平原が広がっていたのでしょうか。ここからは、「阿讃山脈の隆起過程」という論文(※14)を参考に、四国山地・讃岐山脈の隆起の時代を想像してみましょう。

吉野川が、池田町から北進して香川県に流れていたという事実は、徳島県の地質に多少なりとも興味がある方にとっては、よく知られたことだと思います。しかし、この出来事は、そもそもいつ頃のことなのでしょうか。
上記の論文は、吉野川が讃岐山脈の隆起により北進できなくなる時期について、210万年前から120万年前の間としています。

その根拠の詳しい説明は長くなりますので省略しますが、香川県に分布する山本層や焼尾層という地層の堆積物の状況やその地層に含まれるテフラ(火山灰などの火山噴出物)の年代測定などから推定したものです。

また、財田層という地層に含まれる砂岩礫の最大径が比較的小さいことから、吉野川が北進していた頃の四国山地の起伏は、現在と比べてかなり低かったとしています。(※起伏の大きい山から流れてきたなら、石の大きさがもっと大きいはずだという推論です。)
この論文の若い方の年代を取れば、120万年前ごろ(※15)になると讃岐山脈の隆起が活発になり、吉野川は北進できなくなりました。同時に、四国山地の活発な隆起も第四紀を中心に起こりました。

約1450年前に現在の日本列島が誕生してから、おおよそ1300万年の時を経て、いよいよ中央構造線沿いを流れる吉野川は、土砂の堆積作用や下刻作用(※河川の水流が川底を浸食する作用)を経ながら、現在の姿に近づいていきます。

⑨『やがて、吉野川は南側に追いやられ、美濃田の淵の奇岩誕生に繋がります。しかし、結晶片岩の露頭がつくる奇岩は、なぜこの付近にだけあるの?』

吉野川が北進できなくなった頃、中央構造線の活動に伴い池田町付近まで大きな窪地がつくられました。吉野川地溝の形成です。これは吉野川を東へ流す道筋ができたことを意味します。この頃、美馬市を流れる曽江谷川や阿波市の日開谷川は、讃岐山脈が隆起する速度より、河床を下げる河川侵食の方が大きかったため、徳島県側へ流れて紀伊水道へ注いでいました。

こうして、池田町で向きを変えた吉野川は、讃岐山脈の水を合わせながら、大河吉野川の流れをつくり始めます。

さて、この第四紀(くどいですが、約260万年以降です。)は、「氷河時代」でもあります。

氷河を取り上げるのは、河川に関係があるからです。一体、氷河が河川の形成にどんな関係があるのでしょう。

地球が徐々に寒冷化していく中で北半球に氷床ができ始めた時期が第四紀です。(※氷河は、極地等の降雪が圧縮され成長し、自重により流動していく氷塊のことを指し、大陸全体を覆う氷河のことを「氷床」といいます。)

100万年前ごろになると、この氷床の形成が大規模になり、氷床の拡大と縮小が、およそ10万年間隔で繰り返すようになります。氷床の発達は、蒸発した水が海に戻ってこないので、海水の量が徐々に減り、海面の高さを低下させました。これを海水準の低下といいます。今から2万年前には、世界中の海水準は現在より120mも低くなったと考えられています。

このように海水準が変化すると、河川に対してどのような影響を及ぼすのでしょうか。「日本列島100万年史(※16)」から引用してみます。

氷期には、平均気温が下がります。これは山地の植生に影響し、樹木の生育が妨げられます。その結果山の侵食が進み河川の上流部では山腹の崩壊により大量の礫が発生します。
ところが、氷期には季節風が弱まり雨量も減ることから、河川に堆積した土砂は下流へと運ばれることなく上流域に溜まり、河床の高さを上げることになります。

1万年前、氷期が終わると海水準は急速に上昇しました。下流域には上流から運ばれた地層が厚く堆積し平野がつくられました。年代が新しいこの地層は沖積層と呼ばれています。

気温が上昇すると降雨も増加し、谷の上流部では氷期に堆積した土砂が侵食され、峡谷をつくるようになります。河床勾配は、氷期とそうでない時期(間氷期)とで、緩急を繰り返します。この仕組みにより河川に段丘が形成されていくのです。(※段丘は、土地の隆起と河川の下方浸食による河床低下の繰り返しによっても形成されます。)

ここで、旧三好町の河岸段丘の状況を見てみましょう。

いよいよ数十万年前までやってきました。産業技術総合研究所(産総研)が提供する「地質図ナビ」から旧三好町の地質図をみてみます。

凡例は、河岸段丘のみについて記入していますが、美濃田の淵だけは、ここで岩石の種類を説明しておきます。

美濃田の淵の奇岩は、主に「砂質片岩」でできています。左岸側には泥質片岩もみられます。砂質片岩は堆積岩の砂岩が変成作用を受けたもので、同様に泥質片岩は泥岩が変成作用を受けたものです。

泥質片岩は、面状にはがれやすく、薄い灰色から黒色をしていますが、この2つの岩石を比べれば、砂質片岩のほうが泥質片岩よりも白色に近く、粒が粗い感じに見えます。

「美濃田の淵の奇岩」をじっくり観察したことがないという方は、一度、岩石図鑑かスマホ(岩石のサイト)を持って出かけてみてください。散策がさらに楽しくなるに違いありません。

河岸段丘の話に戻ります。

河岸段丘は、その形成時期により、高位段丘、中位段丘、低位段丘に分かれます。高位と低位は1と2に分かれていますが、2が1より新しくなります。これらの形成年代は、一般的な区分として高位段丘が数十万年から10数万年前、中位段丘は、10数万年から数万年前、低位段丘は数万年前とする分け方があります。

産総研の地質図「池田」の解説書は、「この地域の中位段丘堆積物からは阿蘇4テフラ(後述)が、低位段丘1堆積物中からは姶良(あいら)-Tnテフラが、低位段丘2堆積物上からは鬼界(きかい)アカホヤテフラ(※11)が見出されている。」と説明しています。
姶良ーTnテフラというのは、約2万9千年前~2万6千年前に鹿児島湾北部の姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰のことを指します。

上の地質図と航空写真3D図を見て下さい。中央構造線の箸蔵断層(北側の赤い線)と池田断層(南側の赤い線)の間に、「Th1,Th2,Tm」と示された高位段丘と中位段丘があります。

この中位段丘が分布する場所で行われた徳島自動車道建設工事(盛土採取のための山腹切取工事)の現場から、この段丘が形成された年代を特定する研究がなされました。それ(※17)によると、阿蘇4テフラと呼ばれる7万年前から9万年前までの間の一時期に、阿蘇山から噴出した火山灰の堆積層が確認されたのです(※発見場所の名をとって長手テフラと命名されました)。

これにより、中位段丘は7万年前から9万年前に堆積した礫層とされました。また、中央構造線から南側の低位段丘1は、この区域に確認されたとする姶良テフラから、2万9000年前ごろに堆積したものと推定されています。

これらのことから、3万年前ごろになると、吉野川の流れは中央構造線付近まで広がっており、広い範囲を大きく蛇行しながら流れていたと考えられます。


ここで下図(陰影起伏図と活断層図)を見比べてください。

この図を見ると、中央構造線が通る位置に、崖が一直線上に連なっているのがよくわかります。陰影起伏図の右上に小さく神社の地図記号が二つ見えますが、上側(北)の神社(杉尾神社)の南側に崖が確認できます。この崖は断層運動によって生じた「断層崖」ではなく、河川による側方侵食の跡であるとされています。

こうして、少しずつ河岸段丘が階段状に形成され、低位段丘2が現在の美濃田の淵付近に形成されます。この頃には、吉野川の流れは南側に固定し、現在の流れに近づいていたと思われます。そして、隆起したこの地域の基盤岩である結晶片岩の侵食を始めます。

美濃田大橋の下か、もしくは橋の歩道部の中央付近に立ってみてください。両岸に露頭する縞模様の岩石からは、結晶片岩をくり抜き、溝状の河道をつくりあげた吉野川の強い流れを実感できます。しかし、このことを逆に捉えれば、美濃田の淵の奇岩は、この流れに耐えているのです。

それにしても、この奇岩は、なぜここにだけに顔を見せたのでしょう。なぜここだけ吉野川の侵食に耐え、その自然美を今に伝えているのでしょう。

一般的に砂質片岩は硬いとされています。そのため、吉野川の微妙な蛇行による水流の方向や砂質片岩の露頭条件が揃い、ここにだけこの景観をつくったのでしょうか。あるいは、侵食の最後の過程に私たちは居合わせているのでしょうか。奇岩は何も語ってくれません。

最後に、奇岩が吉野川とともに悠久の年月を共生してきたことがわかる場所を紹介しておきます。それが、「雄釜・雌釜」と呼ばれている「ポットホール」です。東みよし町HPでは「三好郡見聞録」に深さ30mと書かれていることが紹介されています(※18)。

ポットホールとは、小さい窪みに入った岩石が、水流とともに回転を始め周囲の石を削りながら、長い年月を経て岩石に大きな円形の穴をあけたものです。近くで見ることができますので、時のながれの偉大さに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

今回は、少し長くなりましたね。

その上、専門的な内容が多すぎたので、次回の教訓にします。ただ、私たちが土木構造物の基礎を設計するとき向き合わなければならない「基盤岩」は、とても壮大な大地の物語を伴っているというのをわかってもらえたでしょうか。

わかりました。

それでは、
当社HPを訪ねて最後まで読んでいただきました皆様、ありがとうございました。

※9 「日本列島の誕生(平朝彦・岩波新書 」。この本の著者、平朝彦氏は付加体研究の第一人者で、1983年に四万十帯における詳細な研究成果をアメリカ(ベンローズ会議)で発表し、当時の地質学界に大きな衝撃を与えた方だそうです。平易に書かれていて、大変わかりやすい本ですので、地質に興味がある方にお薦めの本です。
※10 Endo S., Wallis S. R., Tsuboi, M., Aoya M. and Uehara S. (2012) Slow subduction and buoyant exhumation of the Sanbagawa eclogite. Lithos, vol.146-147, p.183-201.

※11 古地磁気学というのは、岩石に微妙に含まれている磁気成分を測定し、ある時代にできた岩石がその時代の地球磁場の方向とは異なる磁気方位を示すときは、その岩石が何らかの移動や回転を含む運動をしたと考え、過去の地殻変動の様子を明らかにする地質学の一分野です。
※12  古地磁気学 に基づく、日本列島の移動に関する研究は、多くの文献がありますが、研究中の苦労を日記風に描いた能田成著「日本海はどうできた・ナカニシヤ出版)」に詳しく説明されています。

※13 NHKジオジャパン 激動の日本列島誕生の物語・宝島社
※14 地質学雑誌1998・阿讃山脈の隆起過程:鮮新~更新統三豊層群を指標にして(植木岳雪・満塩大洸)
※15 「三好市ジオパーク構想」では、約120万年前としています。

※16 日本列島100万年史 山崎晴雄・久保純子 BLUEBACKS
※17 徳島県阿讃山地南麓の段丘堆積物中から見出された長手テフラとその対比(森江孝志・小澤大成・奥村清)

※18 ポットホールの深さを計測してみました。が、その結果の報告は控えておきます。ご了承ください。
※19 上に記載した以外に、次の本・資料を参考にしました。
    ・三好市ジオパーク構想ガイドマップ
    ・三好郷土史研究会誌第29号「美濃田の淵はどのようにできたか 藤枝主市」
    ・図解・プレートテクトニクス入門 木村学・大木勇人 BLUEBACKS  
    ・プレート収束帯のテクトニクス学 木村学 東京大学出版会
    ・川はどうしてできるのか 藤岡換太郎  BLUEBACKS
    ・H25産業技術総合研究所 地質調査総合センター 新居浜地域の地質 

謝辞

本ブログを作成するにあたり、徳島大学大学院准教授の青矢睦月先生には、貴重な時間を割いていただき、初歩的な地質学についてご教授願いました。また、地質に関する資料も多数ご提供いただきました。本当に有難うございました。



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