スタッフブログ特別編(#4 幻の美濃田橋 1/4)吉野川にかける夢

2021年08月30日

スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#4 幻の美濃田橋 1/4)

このページは、「橋の魅力に触れる」をテーマに作成する「スタッフブログ特別編:ブラリ橋」です。

今日は、東みよし町にある「吉野川ハイウェイオアシス」に来ています。ここは、隣接する徳島自動車「吉野川サービスエリア」からのアクセスだけでなく、一般道からも利用できることから、休憩・情報・観光などの機能を有する複合施設として人気のスポットです。

施設内にある日帰り温泉「美濃田の湯」からは、清流吉野川の「名勝・天然記念物 “美濃田の淵” 」を見渡せます。

建物の二階にある展望台も吉野川の眺望ポイントです。上流には、赤く塗装された「美濃田大橋」が遠くに見えます。碧い吉野川の流れと周囲の濃い緑の木々がつくる自然景観に、色鮮やかな吊橋が映えています。

目を下に転ずれば、上流側から続く「美濃田の淵の奇岩」が見えます。大部分は繁茂した木々の影に隠れているので、その迫力を感じるには川縁まで降りるのがよさそうです。

展望台に設置された銀色の枠で縁取られた案内看板が目に留まります。

「美濃田橋架設全景予想図」という文字の下には、橋の完成予想図を描いた美濃田の淵の白黒写真が掲示されています。今日の目的はこの橋。こんな大きな橋を美濃田の淵に架けようとしていたのです。写真の隣に記された「橋脚は語る 『美濃田橋』への思い」という説明書きには、かつて吉野川を自由に渡ることを夢見た一人の男性の挑戦と、その夢の実現に奔走した関係者の苦労、地元住民がこの橋に寄せた大きな期待、そして叶わなかった夢への無念さが綴られています。

それでは、吉野川沿いにある公園内の道路まで降りていき、その夢の跡を見てみましょう。

今日は、渡れない「幻の美濃田橋」でブラリ橋。

改めて見ると、少しびっくり。こんなに大きな岩だったのですね。それに池田町から下流では、こんな光景が見られるのはここだけですよね(※1)。確かに、「奇岩、怪岩の景観」と言われるのには納得ですね。

昭和30年から徳島県指定文化財(名勝・天然記念物)に指定されていて(※2)、その時の申請書に美濃田の淵の魅力が書かれています。

昔の文章だから少し読みづらいけど、当時の担当の方の思い入れが伝わりますね。

確かに。さて、今日はその話は置いておいて、本題は『幻の美濃田橋』です。見ての通り、吉野川の真ん中に立っている橋脚(主塔)が今日の主役です。

でも美濃田の淵の景観美の主役はこの岩ですよね。橋脚が吉野川の洪水に耐えてきたのは、この岩のお陰とも言えそうだし。この岩に触れないわけには・・・

その通りですが、まず今日は、橋の話から始めましょう。

それでは、お願いします。

美濃田橋建設計画の経緯

橋の建設計画は、太平洋戦争終結後間もない昭和20年代後半のことです。吉野川が増水する度に舟止めになる「渡し」の不便さを憂い、美濃田の淵に橋を架けようとした人がいました。その人が、足代村(合併により現東みよし町)に住む森金次郎氏です。
森氏が発起人となり、足代村の人たちに橋建設を働きかけます。有志の人たちの賛同を得ると「工事委員会」が結成され、昭和29年9月(徳島新聞)、橋脚工事(主塔基礎工事)に着工します。公共工事ではなく、民間による橋梁建設工事でした。

森氏や関係者の努力でどうにか工事の着手までこぎつけたものの、実状は十分な工事費の裏付けがない中での着工でした。この付近は平地部を流れる吉野川ですが、他の箇所に比べ河川勾配が急で、増水時には水の流れが早く基礎工事は難工事でした。それでも工事関係者の奮闘により、北岸側の橋台(左岸主塔基礎)と橋脚(中央部の主塔)は完成します。完成時期の記録はありませんが、新聞記事から推測すれば昭和30年早々と思われます。

関係者の安堵もつかのま、橋計画の中心人物だった森氏が病気で倒れます。吉野川の中央に立つ橋脚の勇姿を森氏が実際に見たかどうかわかりませんが、その年の2月、森氏は急逝します(案内看板)。

森氏のあとを工事委員会会長であった森田宣光氏らが引き継ぎ、工事費の捻出のため東奔西走します。森田氏は私財も投じたとされていますが、残工事に着手できないまま160万円あまりを支出したところで、「美濃田橋建設計画」は中止に至りました。中止の決断は、工事の進捗状況から推測して昭和30年と思われますが、多くの負債が残ったと言われています。

それから66年、美濃田の淵の橋脚は、当時の人たちの夢と希望、そして無念の物語を秘めて、美濃田の淵の奇岩の上に今日も立ち続けています。

この計画は、未完成の工事でもあることから、詳細な記録が残っていません。参考になるのが、案内看板の記述や三好町・井川町の町史、東みよし町HPですが、時期の特定などにおいて不明な点もあります。このため、推測にならざるを得ない箇所もありますが、当時の工事状況を伝えた徳島新聞記事も参考にしながら、森氏の夢の跡を追ってみましょう。

吉野川の架橋状況(昭和25年頃)

大正時代には、洪水時でも十分な桁高を有する、いわゆる「抜水橋」と呼ばれた橋は吉野川にはありませんでした(※3)。ところが昭和になると、「三好橋・穴吹橋・吉野川橋」という現代につながる長大橋が競うように建設されます。
三好橋は昭和2年、穴吹橋・吉野川橋は、昭和3年に完成します。さらに、昭和10年には、大川橋が祖谷口駅(山城村<現三好市山城町>)の開業とともに完成します。大川橋は、長さ150mの吊橋で個人が私財を投じて建設したものです。当時大川橋は「賃取り橋」の愛称で親しまれ、通行料を徴収していました。幅約3m、舗装面にあたるところは板材でできていましたが、自動車も通行可能でした。

この橋は、橋の規模といい建設方法といい、吉野川に橋を架けたいという森金次郎氏の思いに大きな影響を与えたであろうことが容易に想像できる橋です。当時としては異彩を放つ橋でしたが、昨年、惜しまれながら両側の主塔を残してすべて撤去されました。

森氏が美濃田の淵に橋を架けようと公に運動し始めたのは、昭和27年末(徳島新聞)とされています。美濃田の淵に橋を架けることを具体的に着想した時期は定かではありませんが、森氏はこの大川橋を渡ってみたに違いありません。
「個人が架ける橋でもこれだけのことができるのなら、美濃田の淵でも可能ではないか。それに吉野川の深い渓谷をひとまたぎしている大川橋と違い、美濃田の淵なら橋脚を堅固な岩の上に立てることができる。美濃田の淵は橋建設の適地ではないのか」 
そんな思いを強くしたはずです。

吉野川の橋梁建設が再開される!

昭和20年の終戦を境に、日本は廃墟からの復興が始まります。大川橋以降止まっていた吉野川での橋梁建設も再開の機運が高まります。そして再開第一号となるのが、「阿波中央橋」。吉野川橋と穴吹橋の中央付近に架かる橋として「阿波中央橋」と名付けられました。
当時日本は連合国軍の占領下に置かれていたため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可を受けた上で、橋の建設が正式決定されました。昭和24年のことです。
徳島県が施行する長大橋建設のニュースは、森氏の耳にも届いたことでしょう。吉野川下流で進む阿波中央橋の建設は、それまで森氏が抱いていた「美濃田橋建設」のぼんやりした構想を具体的な計画へと変える原動力になったのではないでしょうか。


当時の吉野川渡河手段

森氏の家は美濃田の淵に流れ込む吉野川の支流黒川原谷川(くろかわはらだにがわ)の近くにありました。美濃田の淵までは500m程度。森氏の家から一番近い「渡し」は、「美濃田の渡し(※4)」でした。ここを渡る森氏の目には、いつからか美濃田の淵の奇岩の上に、両手を広げるように立つ吊橋の光景が見えていたでしょう。

森さんの架橋運動の動機につながる背景をみてみました。もちろんその前提には、吉野川をいつでも安全に渡りたいという強い思いがあったということです。それは、足代村の人たちだけのことではありません。当時、吉野川の北岸に住んでいる人たちの吉野川を渡りたいという思いは、南岸の人たちより強かったのです。なぜだか分かりますか。

先程の地図を見れば、汽車の駅が書いてありましたが、それがヒントのような?

この橋の架橋運動に加わったとする南岸の人たちの記録がありません。おそらくその理由も、この問題の答えと同じだと思います。

鉄道の開通と「渡し」の需要の変遷

吉野川は、かつて重要な交通路でした。平田舟という川舟が吉野川を行き来し物資を輸送していました。しかし、明治33年、鉄道が川田まで開通し、大正3年には池田まで延長されます。それは、吉野川から交通路としての役目を奪い、平田舟の急速な衰退の原因となりました。

平田舟が縦断方向の交通路なら、渡しは横断方向の交通路でした。鉄道の開通は、この渡しの利用度を飛躍的に増大させます。従来の舟は大型化されます。岡田式渡船という画期的な舟も登場しました。もともと、吉野川の渡しは南岸の人の利用度が高かったのです。南岸の農家が北岸に多くの耕地をもっていたこと。香川県との交流もあったでしょう。

ところが南岸に鉄道がひかれると北岸の産物は駅へ届けられます。このことは南北の渡しの利用を逆転させました。
足代村について言えば、村内の子どもたちは、辻高等女学校(現池田高等学校辻校)へ通うため、また池田中学校(現池田高等学校)へは汽車通学のため、辻へ渡る必要がありました。
昭和10年土讃線が高知まで開通し三好郡の経済の中心が池田に移るまでは、辻は郡内で一番栄えていたということもあり、北岸の足代村の人たちにとって、渡しはとても重要な交通手段でした。

渡船は今でいうフェリーボートのようなものだから、主要な住民の足だったのです。だから、渡しを利用する人なら誰でも、三好橋や穴吹橋のような橋が早く架からないかなと思っていたでしょう。
実は、この付近の渡船の乗り場の中では、一番利用度が高かったのが、辻中心部に近い「辻の渡し」だったそうです。「辻の渡し」は、今の美濃田大橋が架かっている地点のすぐ上流側にあったので、そこに橋がほしいと考える人は多かったと思います

ということは、森さんにとって強力なライバルだったということですか。

それはどうかわかりませんが、昭和30年3月に誕生する三好町(足代村・昼間町合併)の初代町長 秋田仁平氏は、
『辻渡しを利用する時はよく船頭さんと話した。ここには橋脚にもってこいの自然の岩盤があるし、吊橋でも架かればいいのにと。だから、(美濃田大橋が)完成した時は期成同盟会(昭和29年発足)の一員として僕も通り初めに出席した(三好町町史から要約)』と、
のちに述懐しています。森さんの計画と時期が微妙に重なっているので、無関係だったとは言えないかもしれません。

それに、同時に町村合併の話が進んでいたということですね。

これも森さんにとっては、誤算のひとつではなかったかと思います。三好町史によると、『昭和30年の町村合併時の繰越赤字や美濃田大橋の地元負担金などによる歳出の増加により昭和34年、国から財政再建準用団体の指定を受けた』となっています。
当時はインフレによる物価の高騰が凄まじく、阿波中央橋でさえ工事費の捻出に苦労していたので、橋を民間で建設するとなると、なおさらだったでしょう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(#4 幻の美濃田橋2/4)へ続きます◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

※1 徳島県阿波市阿波町岩津の岩津橋の上流には、規模は小さいものの美濃田の淵と同様に岩が露頭しています。ここは吉野川の中では河川勾配が他の箇所より急で、美濃田の淵に似た地形です。
河川勾配が急といっても、平地部を流れる吉野川ですので、隣接する国道等から肉眼で感じられるような急な勾配ではありません。
※2 県指定文化財には、有形文化財、無形文化財、民俗文化財そして記念物(史跡、名勝、天然記念物、旧跡)があり、美濃田の淵は、昭和30年7月15日徳島県指定文化財(名勝・天然記念物)として指定されています。また、昭和42年1月1日、『箸蔵県立自然公園』の一部として県立自然公園にも指定されました。

※3 大正12年(1923年)に大川橋を架けた赤川庄八氏が、木材を搬出するため現赤川橋(吊橋109m)の先代の橋としてコンクリート製の主塔を持つ吊橋を架設しました。
※4 小山の渡しとも呼ばれ、南岸側は炭焼の渡しと呼ばれていました。

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