スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#7 阿波中央橋2/4)

※このページは、(#7 阿波中央橋1/4)の続きです。
1950年(昭和25年)ごろのイサム・ノグチの動静
1950年5月2日、45歳を迎えたイサム・ノグチは、実に19年ぶりとなる来日を果たします。翌日の主要各紙は、羽田空港でプロペラ機から降り立つイサムを「日系米人前衛彫刻家」と紹介しました。(※1)
(※1:イサム・ノグチの動静については、ドウス昌代著・「イサム・ノグチ宿命の越境者」に詳しく、終戦後の日本での活動状況を詳細に知ることができます。)
このことからも分かるように、既成概念や形式にとらわれない先駆的な表現を行う彫刻家として、イサムはすでに一定の評価と地位を築いていたのです。
さて、阿波中央橋の起工式が行われたのは、イサムの来日のわずか1週間前のこと。つまり、イサムが日本に到着した時点で、すでに橋の建設工事は始まっていたことになります。
「それでは、イサム・ノグチと阿波中央橋には接点がないのでは?」
そう思われた読者の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、親柱は橋の完成までに設置されればよいため、この段階で工事が始まっていたからといって、イサムが関わっていなかったとは一概には言えないのです。
来日後、イサムは講演会などに奔走する多忙な日々を送りましたが、4か月後の9月5日にはアメリカ・ロサンゼルスへ帰国します。
そして次にイサムが再び日本を訪れたのは、翌1951年3月末のこと。7か月ぶりの来日でした。このタイミングで、彼に大きな仕事が舞い込みます。
再来日から約2か月後の6月、イサムは終戦から6年を経た広島の街を訪れます。
当時広島では、2年前に施行された「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の整備が始まっていました。公園の設計は、デザインコンペで一等を獲得した東京大学の丹下健三研究室が担当していました。
このとき、丹下は旧知の仲だったイサムに、公園内に設置される原爆慰霊碑のデザインを依頼します。イサムはこれを快く引き受け、設計図まで完成させたものの、「慰霊碑をアメリカ人に設計させるわけにはいかない」という理由により、彼の案は採用されませんでした。
それでも、広島で“平和”に関わる仕事を手がけたいというイサムの強い思いは、別の形で現実のものになろうとしていました。

平和記念公園を挟んで、東側には元安川、西側には本川(旧太田川)が流れています。この川に架かる橋を含む、幅40メートルの「平和大通り」は、広島復興の象徴的なプロジェクトでした。
この川に架けられる2つの橋、「平和大橋」と「西平和大橋」は、建設省の発注により工事が進められており、その高欄(欄干)については、平和記念資料館や公園と調和するデザインが求められました。
そこで建設省は、丹下にデザインの相談を持ちかけます。もともと広島の復興事業に強い関心を抱いていたイサムは、丹下からの提案を快諾します。
その年の7月、イサムは再びアメリカへ帰国しますが、帰国の直前、デザインの依頼は承認され、デザイン作業は飛行機の中で進められたといわれています。さらに、後に妻となる山口淑子(李香蘭)が使用していたハリウッドのスタジオの鏡台さえも、彼のデザインの作業場となりました。
当時の設計料は50万円と記録されています。
実は2007年にこの橋の老朽化調査業務が発注され、その一部に弊社が関わらせていただきました。恥ずかしながら、調査を始めた当初は、この橋の高欄がイサム・ノグチの設計だとは知らなかったのです。後に知って非常に驚いたことを覚えています。

高欄とは思えないような、奇抜な形ですね。
正直、最初に見たときはびっくりしました。当時の懐かしい写真も見つけたのですが、デザインが本当に独創的です。特に高欄の端部は、まるで空に向かって跳ね上がっていくような形をしています。後から調べて、『昇る太陽と船の舳先』がモチーフだと知り、なるほどと感銘を受けました。
イサム・ノグチがこの高欄を設計したのは1951年(昭和26年)7月、そして翌年の1952年3月末に橋が完成したそうですね。そうすると、阿波中央橋の工事はその時点で3年目に入り、完成まで残り1年という時期でしょうか。そろそろ阿波中央橋の親柱の詳細設計も必要になってくる頃では?
その通りです。仮にイサム・ノグチにデザインを依頼するとなると、この時期にイサムと徳島との接点が必要になります。ただ、イサムが注目を集めた広島の仕事を終えたばかりの時期ですので、続けて徳島の橋の親柱まで設計できたのかという点には疑問が残ります。
実際、不自然に感じる点は他にもあります。文献などによると、イサムが初めて徳島を訪れたのは阿波中央橋完成から4年後の1957年だとされています。このときは、イサムが設計していたパリのユネスコ日本庭園に使う青石(緑色片岩)を探しに、神山町を訪れたとのことで、その様子は徳島県立文書館の資料にも記録されています。
そうなのですね。ちょっとややこしいので、再度、阿波中央橋の工事期間を確認して頭を整理しておきましょう。


(#7 阿波中央橋3/4) へ続きます。