スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#7 阿波中央橋4/4)

※このページは、(#7 阿波中央橋3/4)の続きです。
阿波中央橋の親柱を制作した思われる石材会社さんを訪問
庵治町がある庵治半島には半島を一周する県道があり、この路線の沿線は、2011年公開の映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地としても知られています。岡田石材工業株式会社さんは、この沿道沿いにあり、「イサム・ノグチ庭園美術館」からもほど近い、庵治町の南西部に位置していました。
事前の連絡なしで訪問したにもかかわらず、丁寧にご対応いただき、社長の岡田康作さんから直接お話を伺うことができました。
岡田社長さんのお話:
橋の親柱工事は、当社が手掛けたものだと思います。工事記録に社名が残っているのであれば、ほぼ間違いないでしょう。当時は徳島方面でも多くの仕事をしていて、墓石や親柱の工事も数多く手掛けていました。徳島との関係も深く、今でもよく知る徳島の業者さんがいますよ。
このあたりには石材業の会社がたくさんありましたが、施工額でいえば、当社が一番大きかったと思います。ただ、残念なことに社屋が火災に遭い、当時の記録は残っていません。
小児像も、当社が携わった可能性は高いですね。ただし、イサム・ノグチとの関係がまったくなかったとは言い切れません。当時、金子知事の紹介で、流(ながれ)氏(※1)の活動をうちで支援していたことがありました。これは、先代の時代の話です。そのすぐ後にイサム・ノグチは和泉屋さんが引き受けることなりました(※2)。 持参された写真だけでは、小児像に使われている御影石の産地などを特定するのは難しいですが、流氏の作品ではないと思います。
(※1: 流政之”1923-2018 ながれまさゆき”)
1923年長崎県に生まれ、幼少時代は東京で過ごす。1942年に立命館大学法文学部へ進学。その後中退し、零戦パイロットとして終戦を迎える。戦後は日本全国を放浪。独学で彫刻を学び、1963年に渡米。作品『受』は1960年にニューヨーク近代美術館の永久保存作品として収蔵されており、彼の国際的評価の高さを裏付けている。1966年から香川県高松市郊外の庵治半島の北端近くにアトリエを作り始め、2019年9月5日、自宅兼アトリエを整備して、「ナガレスタジオ 流政之美術館」が開館している。(Wikipediaから抜粋)
(※2: 丹下健三の紹介で石彫の新鋭彫刻家流政之がやってきたので、金子知事は庵治町で一番手広くやっていた石材店に紹介した。流はそこを仕事場に、町おこしにつながる制作に専念、また地元の若い石工を育成する「石匠塾」をつくり、彼らを率いてニューヨーク世界博日本館の壁彫を制作して評判をとった。”ドウス昌代著 イサム・ノグチ宿命の越境者から”)
当時は、イサム・ノグチだけでなく、流さんという彫刻家もいて、庵治町・牟礼町の石材産業は大変活気があったのではないかと想像できますね。イサム・ノグチと若い石工たちとの交流もあったのかもしれません。
これまで三つの視点から、イサム・ノグチと親柱の関係を探ってきましたが、一つの結論にたどり着いたように思いますね。そこで、“本当はこうだったのではないか”という私の勝手な妄想を披露させてください。
イサム・ノグチがデザインしたとされる小児像、その話は一体どこから?
題して:「イサム・ノグチの話はこうして広まったの…じゃないかな?劇場」
阿波中央橋の工事が折り返しを迎えたある日。工事事務所では所長の高田(仮名)が、工事全体を総括する課長・山下(仮名)にこう話しかけます。
「山下くん、そろそろ親柱のデザインを決めんといかんなあ。徳島だけじゃなく、日本にとっても、戦後にこんな大きな橋が完成するのは記念すべきことだ。なにか工夫を凝らしたいな」
社交的で朗らかな山下課長は、まるで待っていたかのように言います。
「実は所長、毎日うちの工事現場を堤防の上から見ている小さな子どもがいるんですよ。おじいさんに連れられていてね。これからの日本は、あんな子が武器を持つような国であってはならないんです。それで、子どもの像を親柱に設置して、日本の平和がいつまでも続くよう、橋の上から見守ってもらうのはどうでしょうか」
「それはいいな。それなら男女それぞれ2体、計4体を左右に配置したらどうだ。地覆を担当してもらっている石材屋さんに、併わせて頼もうじゃないか」
こうして、小児像の制作は、庵治石をはじめとする高級石材の加工で知られる香川県庵治町の岡田石材株式会社に依頼されました。
その庵治町の隣・牟礼町には、1969年(昭和44年)頃からイサム・ノグチが「マル」と呼ばれる工房を構え、多くの作品を生み出していました。この工房はのちに「イサム・ノグチ庭園美術館」として知られるようになります。
月日は流れ、阿波中央橋の完成から20数年後のある日。山下課長は、県庁の廊下で旧知の技術職員とばったり出会います。
「そういえば、山下さんは阿波中央橋の担当でしたよね。私も今、橋の工事に携わってまして、ちょうど親柱をどうするか悩んでいるところなんです。阿波中央橋のときは、どうやって決めたのですか?」
山下課長は、少し懐かしそうに答えます。
「阿波中央橋の工事が始まったころは、まだGHQがいてね。ちょうど工事中にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本の主権が回復した。それで、親柱には“平和”に関する象徴を取り入れたいと思ったんだ。御影石の加工で知られる庵治町の石材屋さんに地覆や親柱を担当してもらっていたから、その縁で小児像も御影石で作ってもらったんだよ。庵治町といえば、隣の牟礼町も含めてこの石材屋さんは最大手でね。しかも、あのイサム・ノグチの工房も近くにあって、芸術作品が次々と生まれていた。」
やがてこの話は少しずつ変化し、次のように伝わるようになりました。
「阿波中央橋の小児像は、イサム・ノグチの工房の近くの石材店で作られた。→ イサム・ノグチの工房で作られた。→ イサム・ノグチがデザインした。」
なるほど、ずいぶん大胆な仮説ですね。でも、“当たらずといえども遠からず”という感じかもしれませんね。
読者の皆さんに、ここで今回の調査の“まとめ”を改めて申し上げる必要はないと思います。それよりも、戦後まもなく“平和”への願いを込めて架けられたこの橋の小児像には、多くの人の祈りが込められていることは確かです。
今年は終戦から80年という節目の年。幸いにもこの80年間、日本では若者が銃を取るようなことはありませんでした。世界ではいまだ争いが続いていますが、“平和を希求する心”を象徴するこの像を、私たちはこれからも大切にしていきたいと思います。
本当にそうですね。このブログを最後まで読んでくださった皆様のなかで、小児像を実際にご覧になったことがないという方は、ぜひ阿波中央橋を訪れてみてください。吉野川右岸(南岸)側の堤防には車を止めることができるスペースもありますので、橋を通る機会があれば、少し足を止めてご覧いただきたいと思います。
それでは、今回のブログはこれでおしまいです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

次の書籍を参考にしました。
イサム・ノグチ宿命の越境者(上・下) ドウス昌代
もっと知りたいイサム・ノグチ 生涯と作品 新見 隆
石を聴く ヘイデン・ヘンーラ(北代美和子訳)
イサム・ノグチ 庭の芸術への旅 新見 隆
イサム・ノグチ 発見の道 編集 東京都美術館・朝日新聞社
吉野町史 下巻 昭和53年6月末日 発行 吉野町史編纂委員会

最後に、イサム・ノグチの作風が分かる作品を紹介しておきます。
神奈川県立近代美術館(葉山館)に野外彫刻として展示されている「こけし」という1951年の作品があります。当館のウエブサイトで見ることができます。下記のURLからアクセスしてください。
https://www.moma.pref.kanagawa.jp/hayama
※2025.6.25リンク許可済み
岡山市北区の万成地域で産出され、イサム・ノグチが愛した石材と言われるのが、「万成石(まんなりいし)」です。正式には「角閃石黒雲母花崗岩」という種類の石ですが、この万成石を用いて、イサム・ノグチは阿波中央橋の建設が始まった年の2年目に、「こけし」という作品を制作しました。対になったこの「こけし」には、彼の作風がよく表れています。
映画に出てくる宇宙人を思わせるような姿に見えるかもしれませんが、そう言ったら叱られるでしょうか。それほどにユニークな造形です。阿波中央橋に設置された、幼い子どものイメージを忠実に再現した「小児像」とは、まったく異なる印象を与えます。