スタッフブログ特別編(#7 阿波中央橋3/4)イサムの足跡を辿る

2025年06月30日

スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#7 阿波中央橋3/4)

イサム・ノグチ 香川県の金子知事を訪ねる

少し話が逸れますが、イサムは徳島を訪れる前に、香川県の金子知事を訪ねています。1957年のことです。
阿波中央橋が完成して4年も経ってからの出来事なので、ここで触れるのは唐突に思われるかもしれませんが、今回のブログのテーマを考えると、香川県への訪問は見過ごせない大事なエピソードだと思いますので、少しだけ紹介させてください。

金子知事は、イサムを庵治町(あじちょう)の石切り場に案内しました(※1)。庵治町は、日本三大花崗岩のひとつ「庵治石」の産地として知られています。庵治町の南に隣接する牟礼町とともに、両町は古くから庵治石を墓石などに加工する石材産業で有名です。西には源平合戦の舞台・屋島を望み、背後には弘法大師空海が修行したと伝わる、別名「八栗山」とも呼ばれる五剣山がそびえています。

(※1:このエピソードもドウス昌代著「宿命の越境者」を参考にしています。)

この地から採れる庵治石は、最高級の御影石として知られています。石英・長石・雲母といった結晶が非常に細かく、密に結びついているため、磨くほどに艶が出て、風化や変質にも強いとされています。

金子知事としては、「庵治石産業を盛り上げてもらいたい」という期待があってイサムを案内したのですが、当のイサムは庵治石自体にはあまり関心を示しませんでした。当時の彼の関心は、日本国内で石彫の制作活動を行える場所を見つけることにあったのです。

そこで知事は、香川県庁建築課の課長補佐だった山本忠司氏に、イサムの助手として活動できる石工を探すよう依頼します。山本氏が紹介したのが、当時牟礼町を代表する石材店・和泉屋の三男でした。この方こそ、のちにイサムの右腕となり、日本での活動を全面的に支えた人物、そして元イサム・ノグチ日本財団理事長を務めた和泉正敏氏です。

こうして、庵治町・牟礼町という庵治石の一大産地とイサム・ノグチとの、今に続く運命的な関係が始まりました。


香川県牟礼町には、1991年に「イサム・ノグチ庭園美術館」が開館しています。ここには、1967年以降、イサムが毎年滞在していたアトリエが当時のまま保存されており、地元出身の和泉正敏氏をパートナーとして制作された150点あまりの彫刻作品が展示されています。

イサム・ノグチ庭園美術館に行ってみたい方は、事前に予約されることをおすすめします。ただし、予約がなくても、その時の見学者数に余裕があれば、予約者と一緒に入場できることもあります。

館内では、約30分間、彫刻作品を自由に鑑賞できる時間が設けられており、高さ3.6メートル・重さ17トンの巨大な石の彫刻『エナジー・ヴォイド』をはじめ、数々の作品をご覧いただけます。
また、イサムが実際に作業していた当時の作業場も保存されており、石を削るために使われていた大小のノミなどの道具類も、そのままの形で展示されています。和泉氏と共に作品づくりに励んだ当時の様子を偲ぶことができる、貴重な空間です。

近くには、丸亀の武家屋敷を移築した建物もあり、イサムが住居として使用していたことから『イサム家』として親しまれています。さらにその建物から、急な30段の石段を登った先には、『牟礼の裏庭』と呼ばれる庭園が広がっています。かつては段々畑だったそうですが、その面影はほとんど残っていません。

庭園内には人工的に造られた小高い丘があり、登ると正面には屋島を一望できます。イサムがこの風景を気に入っていたであろうことが、今もなお感じられます。

さて、この話題を取り上げたのは何故なのでしょう。それは、もう少し後で分かるみたいです。

当時のマスコミは、阿波中央橋の建設やイサム・ノグチのことをどのように報じたか。

ここでは当時の新聞が阿波中央橋の完成をどのように報じたかを見てみましょう。

このブログの冒頭で説明したように、開通式を4日後に控えた5月16日付け徳島新聞は、20日に盛大な開通式が開かれると報じています。

開通式当日の20日付の徳島新聞には、徳島県知事をはじめとする7名の関係者の喜びの声が掲載されました。“歓呼はあがる南に!北に!”という大きな見出しが紙面の最上段に掲げられ、新しい橋に対する地元住民はもとより、徳島県民全体の大きな期待を代弁しています。

それで、イサム・ノグチのことや親柱については何か書かれていますか。

お待たせしました。この日の紙面では、親柱について少しだけ触れられています。

“世紀の偉業成る”という見出しの下に、
“(前略)、又親柱には桜御影石を用いて上に男女小児像をのせ平和を象徴した近代橋であり、南国阿波の新名所として数えられるものである。”

と書かれています。

それだけですか? イサム・ノグチが手掛けたという記述はないのですか?

残念ながら、それ以外には親柱に関する記述は見当たりませんでした。桜御影石というのは、円柱状の台座を指していると思われますので、内容としては正確です。逆に言えば、当時、県庁もしくは現場事務所の担当者が新聞記者に伝えた情報がこれだけだった、ということになります。仮にイサム・ノグチが関与していたのであれば、当時のイサムの知名度からして、単なる事実の記述で終わるはずはないと思います。

つまり、これが事件だとしたら、“第一級の状況証拠”ということになりますね。

まあ、結論を急がず、先に進めましょう。実は昭和47年(1972年)2月5日付の徳島新聞にも、“ふるさと再見”という特集記事があり、吉野川の橋が取り上げられているのですが、阿波中央橋に関する記事の中でも、親柱に関する記述はありませんでした。

なるほど。ということは、少なくとも橋の完成から20年ほどは、この話題自体が表に出ていなかったように見えますね。橋の工事記録には、何か手がかりが残っているのでしょうか。

阿波中央橋の工事を記録した町史や工事記録にはどのように記述されているのか。

吉野町史では、「渡しから潜水橋・日本第二の大橋 阿波中央橋」と題し、地域の長年の願いであった永久橋の架設について、7ページにわたって詳述されています。

阿波中央橋が完成する以前は、戦国時代の武将「柿原源太」をその名の由来とする源太渡し(げんだわたし)が利用されていたこと、その後、善通寺工兵第十一大隊芥少佐の統裁の下に架橋演習の教育訓練工事として潜水橋が竣工したことが記されています。

同史には、徳島新聞の開通式当日の記事も掲載されていますが、「阿波麻植を繋ぐ唯一の交通施設 讃岐境へ僅に二里」との大きな見出しで、橋にかける大きな期待と地域を挙げてのお祝いの様子を伝えています。

結局、この町史にも親柱に関する記述は見当たりません。すでに述べたとおり、イサム・ノグチが無名の彫刻家であったなら話は別ですが、広島で物議を醸した仕事の直後であったことを踏まえると、関与の痕跡が一切ないというのは不自然です。


次に「阿波中央橋架設工事報告書」から、親柱についての記録をみてみましょう。

報告書には、高欄工事、地覆工事、親柱工事などについての簡単な記述があります。

このうち、地覆工事と親柱工事は、石材を使用し、親柱のデザインは名古屋市の建築士に依頼、工事は岡田石材工業株式会社に発注したとなっています。

御影石は三種類で、「白御影石は稲田産、桜御影石は岡山産、黒御影石は香川産」を使用、その他、地覆石には香川県与島花崗岩が使われました。ここでいう三種類の御影石は、既存の構造物から直方体の黒い親柱に黒御影石、小児像の台座に桜御影石、そして小児像に白御影石が使われたと思われます。

小児像については次の一文が添えられて記録は終わっています。

「親柱上には左右に男女の小児像をのせ平和を象徴せしめた」

この工事記録の記述を素直にとれば、親柱である小児像も含めて名古屋市の建築士がデザインしたと解釈するのが自然ですが、イサムが関わったとすれば小児像だけ特別に制作されたと解釈しなければなりません。

高松市庵治町にて大正12年に創業し、昭和25年の阿波中央橋架橋時に株式会社化された岡田石材工業株式会社という会社が今も存在します。この会社は、石材工事の設計施工に加え、記念碑や石碑の制作など幅広い業務を手掛けているようです。工事記録には、この会社についての詳細な記述はありませんが、庵治町を訪ねてみました。

スタッフブログ特別編(#7 阿波中央橋4/4)80年の時を越えて

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